第141話 楽しからずや神ながらの道」2015.03.10
和良久は神がかりの道なり。
人、神がかかりして初めておのが使命に目覚めるなり。
高く尊き神への飽くなき憧憬の念をもってたゆまぬ練磨を続けること肝要なり。
いかに健康なりとて、いかに精神気高きとて、それが人ながらの業ならば、極まるところ結局わたくしの道でしかなし。
賢人は用に立たず。
聖人ならねば未来は無し。
ここまで世が乱れ人心荒廃甚だしき時なれば、もはや人の業においてなす術は皆無なり。
人による修復の域を越えたところまで至ったこの世を救うのは神ながらの道に委ねるより他に道は無し。
神と一つとなってこそ真の力が湧き出づるなり。
神人合一してこそ無限の力現るるなり。
これが神ながらの道なり。
これからの世を立て直すには、もはや神ながらの力によるほか手立てはなきなり。
それほどに、いかに人事を尽くしたとて元には直らぬほどの深き傷をこの世に負わせたるなり。
神ながらの道は聖人への道なり。
聖人への道は帰神への道なり。
帰神への道は鎮魂より始まるなり。
鎮魂は浮遊する霊魂をおのが体の真中に鎮めることなり。すなわち鎮魂は全うな人として生きるための基なり。決して特別なることではなきものなり。
人、鎮魂して初めて神の子たることを覚るなり。
鎮魂して初めて神への道を見出だすなり。
稽古は鎮魂なり。
技は帰神した状態により発動せし動きなり。
声は天津金木の振動によりおこる音なり。
音は息なり。息は力なり。
息をするゆえ生きるというなり。
天津菅曽は生きる力なり。
生きる力は天帝よりきたるものなれば、これを八力というなり。
八力の活用は霊魂を育むなり。
霊魂なる一霊四魂に活力をもたらし本来の姿に帰るための稽古なり。
神がかりと言うと不可思議なる霊的現象と思いおる人いと多きなり。
飯綱使い、いたこ、占術などで人心を惑わす者多ければ、酷評あるも致し方なきなり。
されどまことの神がかりの道は古来より秘しおかれた言霊の教えにこそ残されしものなり。
高級神霊は道、法、礼、節を厳修するをもって俗神との区別すること可なり。
邪神はその態度、その言葉卑しくして低俗なること極まりなし。甘言、虚飾をもって人に近づき魔道に落とすなり。
言霊の教えも多く分かれたるが、水茎文字に源を発したる真澄美の鏡こそ尊けれ。
なんとなれば水茎文字は創造の主おんみずから書き記せしものなればなり。
これこそ天津金木、すなわちまことのひもろぎなり。
和良久は人体をして天津ひもろぎとなるの道なり。
正しき神がかりの法をもって高き神霊に身を委ね、神の道具となることこそわれらの喜びなり。
人は何と言うとも、世は如何に攻めようとも信じた道を歩み、いにしえの伝えをもって今日も励むなり。
他に道あらば知りたし、されどいかに訪ねてもまことの道は見つからじ。
この道はいばらの道なり。
されど花道なり。
すでに道なし。
われらの歩きし後に道あり。
切り開くは容易ならじ。
しかはあれども何と楽しからずや。
岩戸の前にて神がかりとなりて踊りたるウズメノミコトの如し。
笑い、楽しみてこその神がかりなり。
笑い、楽しみてこそタヂカラオノミコト登場し岩戸を押し開くるなり。