第145話 「恐み恐みも白す」2015.6.25
言葉に含まれる気持ちは態度になって現れます。
言葉を荒らげれば、行動も荒ぶり、
言葉優しければ、行動は清楚なものとなります。
また逆に行動をもって言葉を制御することもできます。
姿勢を正し、ゆっくり丁寧に動くことで言葉にも奥ゆかしさが出てまいります。
これはバランスのとれた美しい動きにより呼吸が安定するからです。
こういった言葉と行動の調和が、世界に類をみない礼儀という文化を日本に定着させるに至ったのでしょう。
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正しく日本語を使うと物腰が落ち着き、礼儀正しくなります。
また物腰を落ち着けると言葉が綺麗になります。
このように精神と肉体が融合し調和したものが、日本語の特長でもあろうかと存じます。
これが「コトタマ」です。
コトは事であり、言であり、殊であり、琴です。
すなわち万物を差します。
タマは霊であり、魂であり、玉であり、丸です。
すなわち万霊を差します。
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言霊の発声においては「へりくだる」「恐縮する」という心入れは不可欠の要素です。
神道の礼拝で奏する祝詞の最後には必ず
「恐み恐みも白す(かしこみかしこみもまおす)」
という言葉で締め括られています。
祝詞は大和言葉すなわち真の日本語のお手本です。
隠身(かくりみ)なる神。
その神という見えない存在に対して、恐れるという気持ちをもつことが日本語の基本であることを、祝詞は教えてくれています。
見えないものに恐れをいだくこと。
これは同時に見える物質の中に潜む、見えない力の存在を認めることでもあろうかと存じます。
「もののけ」という言葉があります。
これは「物の気」から来ています。
物の中に潜む見えない力に対し、恐れを抱くことから生まれた言葉なのでしょう。
生き物 、また生き物以外の物言わず動かぬ物質でも、霊性が潜み、神秘なる力が宿っていることを信じることで命の尊さを覚ります。
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日本の礼法は「恐み恐みも白す」の体現なのではないかと存じます。
神に対する祈り事、人に対する願い事。
また、それが成就しての感謝の言葉などは、真正面から堂々と言うのではなく、両手をつき、こうべを垂れて伏して申し上げます。
そして、対する神あるいは人も謙譲ひとしおの気持ちを受けて「恐み恐み」と、お受け下さるのです。
こうして上下の別ちなく、互いに伏して面を傾け、謙虚に語り合う文化こそ日本の国風であり、今後もそうあってほしいと思います。
合理主義を標榜する西欧文化に染まった今日、こうした互いに「恐み恐みも白す」光景が見受けられなくなってきました。
学校でも会社でも、長上や年上の方に対し、まるで友達のように馴れ馴れしく接する、礼節を欠いた人たちの多いのを見ると本当に寂しくなってきます。
和やかにして永続的な横のつながりを保つには、堅固なる鉄塔のごとき縦の分別がなくてはなりません。
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縦と横が正しく組まれた社会こそ調和のとれた社会ではないかと思います。
言霊学では、この縦と横が綺麗に組まれた空間を「カミヨ」と申します。
「カミヨ」という言葉は「火水与」と書きます。
「与」は「組むと読む」と言われています。
火と水が組まれたる世界。
火は巌にして霊であり経であり、
水は瑞にして体であり緯です。
神諭に「元の神代に立て替え立て直すぞよ」と示されています。
私たち和良久は、この日本から一端消えた理念と技を復元させ、稽古をしています。
その稽古において、この日本から消えつつある、物事に対し恐れ慎む精神「恐み恐み」の心をも大切に守っていきたいと思います。