第148話 「低きに降りて人を見上げる」2016.05.10
私の何よりの自慢は、純粋で正直な稽古人に囲まれていることです。
人を偽ることなく、人の陰口をたたくことなく、真っ直ぐに前を向いて、一心に剱を振るその稽古人たちのひたむきな姿に私は神を見ます。
そんな皆さんと毎日稽古が出来ることを本当に幸せに思います。
和良久は稽古をする集まりです。
考えに考え、動きに動くところです。
ですから、思想だけでついていこうと思う人は、自然に稽古の螺旋から撥ね飛ばされます。
これは子供の時に大勢で遊んだ縄跳びに似ています。
回る大縄の渦の中に、タインミングを見計らい、思いきりよく一気に飛び込んでいきます。
後はみんなと一緒に仲良く息を合わせてジャンプを繰り返します。
じっと考えてばかりいては皆の輪の中に入れません。
和良久の稽古は、神様が回す大縄に入っていくようなものです。
我を取り払い、回る大縄のリズム、タインミングに身を委ねることが出来ればそれでいいのです。
○
考える人ばかりで、実践する人の少ない世の中です。
心と体のバランスが崩れるのも無理はありません。
実践が伴わないと口が達者になります。手足が動かない分、口を動かしてエネルギーを発散しているのでしょう。
チチが歳を重ねてヂヂとなり、ハハが歳を重ねてババになるごとく、口に口が重なるとグチ(愚痴)になります。
人は自分が出来ないことは憧れを越えて非難をします。悪口は世の常ですが、稽古人さんにはそういう人はいません。
常に己を省み、心身の向上の為に修練に余念のない状態にある身は、神がその身を守ることまったく疑いありません。
しかし、人の悪口や非難が出だしたら気をつけねばなりません。その時はきっと稽古が遠のいている状態に違いありません。
○
この世界には、人としてやってはならぬこと、言ってはならぬことがあります。
当たり前のルールなのですが、それが麻痺をしている方々がいます。
一般的には個人の徳の欠如として軽く済まされますが、組織的なものとして非道なる行為を実行している現実がここにあります。
影に隠れて人の動向を探り、弱みを握って脅しをかける。
または、ものが言えない弱い立場の相手と知って権力を傘に人を操る。
はいと言わねば大変な仕打ちを行う。
こういったことは身近に見受けられる事象です。
まさに「われよし、強いもの勝ち」の世の中です。
「神が表に現れて善と悪とをたて分ける」と預言にありますが、時に悲惨な事件を目の当たりにすると「一体神様はどこに現れたと言うのだ」と自暴自棄になることがあります。
信仰が揺らぐ時勢に突入しているようです。
人は、こうした自暴自棄となって信仰心を失うことが希にあります。これはまったく悪魔の策にかかるきっかけにほかなりません。
よくよく省みれば分かることなのですが、神は確かにご活動を始めておられます。
私は稽古のおかげで神のご存在を確認することが出来、常にぐらつく信仰心を立て直しています。
もし稽古がなければ、とおの昔に私は信仰心を失っていたでしょう。
稽古とは有難いものです。
○
何であれ、神の道を歩むことを望むならば、人の悪口を言ってはなりません。
陰に隠れて策を施してはなりません。
何をなすにもこそこそせず、真正面から堂々となさねばなりません。
人を疑ってはなりません。
寛容にして人を許さねばなりません。
シンプルな生き方を選択せねばなりません。
人に質素倹約を言う前に自分はどうであるか見直さねばなりません。
自分の手を汚さず人の手を汚させてはなりません。
高いところに立って人を見下さず、自ら低きに降りて人を見上げねばなりません。