第152話「天地人の水火これに従って開く」2016.07.11
布斗麻邇御霊(一名を火凝霊という)に記されている七つの図を思い出してほしい。
布斗麻邇御霊とは、宇宙創造より始まる言霊の秘密を端的に図にあらわしたものである。
丸に点は「ス」をあらわし、
四重丸に点は「ウ」をあらわし
丸に横線は「ア」をあらわし、
丸に縦線は「オ」をあらわし
丸に十字は「エ」をあらわし、
四角に十字は「イ」をあらわし、
そして最後の、四角の中に十字線と掛け線が書き込まれた図は「75声」をあらわしている。
この75声をあらわす図には、四角の左上角から右回りに「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」などの十二支が配置されている。
左上角〜「子」
右上角〜「卯」
右下角〜「午」
左下角〜「酉」
四角の上、十字線を境に、左に「丑」、右に「寅」
四角の右、十字線を境に、上が「辰」、下に「巳」
四角の下、十字線を境に、右が「未」、左が「申」
四角の下、十字線を境に、下が「戌」、上が「亥」
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図、左上角の子が北、右下角の午が南で「子午線」。
右上角の卯が東、左下角の酉が西で「卯酉線(ぼうゆうせん)」。
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この図には次の注釈が書かれている。
「天地人の水火これに従って開く」
「この御霊の中よりカタカナ(形神名)を現す」
天の気、地の気、人の気は、この五大父音を基とする言霊75声の力によってその活動力が開花する、というのである。
また、カタカナとは水火の形から成るものであり、それは神の名を賛美するものである。
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四角は横線が上下に二本並び。縦線が左右に二本並んで出来ている。
水火の御伝によれば、上下線の二本並んだ形は「天地」をあらわし、縦線が二本並んだ形は「出入息」をあらわす。
また四角の中の「縦線」「横線」「斜線」の三種の線について。
水火の御伝によれば、経緯の線の十字は「キ也」「コリ也」「クム也」とされる。つまり火(経)と水(緯)が組まれたことをあらわしている。
斜線の「/」は「火中水」すなわち、火の中に水が入ることをあらわし、「\」は「水中火」すなわち水の中に火が入ることをあらわしている。
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言霊はわれわれの思考する平面的なものではなく、宇宙規模の立体的な形、力、音を有す。
その神秘を紐解く術として、昔の神道学者は「六角切子の玉」というものを用いて言霊の研究をした。
「六角切子の玉」は至大天球也、地球の御樋代也と言われる。
「天地人の水火これに従って開く」と示されるとおり、六角切子は万物の絶対バランスとその水火(気)の流れをあらわす。
しかし六角切子の玉ではこの理を知るには少しわかりづらい。
同じ六角の形状の木剱なら、容易にこの神秘に触れる事が出来る。
木剱は上部が六角形、下部が楕円形に作られている。
言霊の力を顕現させる木剱は「六角切子の玉」そのものである。
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六角切子にしろ木剱にしろ、十二支の配列は「8の字」螺旋である。
簡単に言えば六角形に「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」の12の文字を8の字型に書き並べたと思ってよい。
「子」の字の書きはじめを8の字の上の真ん中からはじめる。
そして左にカーブし、右下へ下って左に曲がり、また右上にあがって上部に戻る。
「子」の位置を下側にして8の字を描くと、今度は逆旋回となる。
言霊学において、十二支が示す方向は力の流れである。
六角は八力をあらわし、八力は12方向に光を放つのである。
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剱における螺旋運動と、それにともなって動く体の方向は、布斗麻邇御霊が示す「縦線」「横線」「斜線」に置かれる。
「ア」の剱であれば、まず正面(縦線)に入って「凝」で間をとり、次に横線に入って左(または右)に向いて「凝」で剱を組み、斜線に入って「解」で祓い打ちし、最後に「解」でとどめとする。
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布斗麻邇御霊75声の図が示すものは、それそのまま千座の置座(ちくらのおきくら)である。
千座の置座は、天津金木を置き並べる台座のことで、霊的現象が写し出され、現象化する聖なる空間ということである。
密教における祈祷で護摩というのがある。
護摩壇において結界を張り、法具を並べ供物を献じ中央の炉に護摩木をくべて火を焚いて神霊の力を頼み祓いの業を執行する、いわば「火の洗礼」である。
その昔、空海はことあれば護摩を焚き、燃え盛る炎の前で命がけで神仏に祈祷して奇跡をあらわした。
この護摩壇に似たものが、神道で千座の置座という。
しかし、千座の置座では火は焚かぬ。天津宮言は水の洗礼である。天津金木は「瑞組木」、すなわち瑞霊(水気)により奇瑞を現す組木なのである。
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私たちが住むこの世界も千座の置座であり、大局的には宇宙そのものが千座の置座といえる。
この千座の置座において、示された線上に正確に身を置き、その方向に水火の力を及ぼさせることが大事である。
稽古人とは、天津宮言に示された通りに言い、行い、心を定める者のことをいう。すなわち、神の言いつけに素直に従う者のことを稽古人という。
この世界は神から見れば碁盤のようなものだ。
神が碁石のように私たちを動かす。その石を取る神の思いのままに動いていればいいものを、私たちは神の手を払いのけ、自分の力だけで動こうとする。
全体像が見えず、目先のものしか見ない私たちはついに行き場を失う。
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大本最盛期、出口王仁三郎師も全身全霊で天津金木を置き並べて主神の神霊に降下を願い、天津菅曾を八針に取り裂いて祓いの業に取り組まれた。
その光景は、すさまじいものであったに違いない。
言霊を発して金木を置き並べ、立ったり座ったりしながら手にした菅曾を内に回し外に回し、また上に打ち上げ、下に打ち下ろし、右に左に振り、前に後ろに振って動きまわるのである。
それこそ、これほどの難行苦行はないと思う。声を出し、全身を動かしての命をかけた祈りである。
常人ならば一回に執り行う天津宮言の行事で、精根尽き果てる。
しかし、聖師にはこれほどのことを繰り返しやらねばならない理由があった。
「このままでは世界は滅びる」
驚くべき未来を神様に見せつけられたからである。
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「神界の扉を開く三つの鍵」とも言われる天津宮言。
この行事執行については悪神の妨害も激しい。
その昔、大石凝真素美、山本秀道、太玉太観の三氏によって執行された行事は猛烈な悪神の妨害によって阻止された歴史がある。
大本においては弾圧の嵐が駆け巡った。
しかし、そのお陰で世界は救われた。小さな型で終わらせたのだから。
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いま私たちは天津宮言を稽古させていただいている。
和良久を出すにあたって
「悪神の妨害を覚悟せねばならない」
そう恩師に言われた。
「そんな受難のある稽古事は御免だ」と思うだろう。
しかし、すでに聖師によって大きな膿は出された。
後は、神の守りを受けながら、意志を引き継いでいくのみである。
真の言霊が世に出るに際し、自動的といっていいほどに妨害はある。
これは、たとえば隠した金庫を開けたらセンサーがはたらいて守衛が飛んでくるようなものである。
守衛は説明すればわかる。しかし、守衛が去った後、今度はその宝を狙って強盗が押し寄せる。
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言霊は神の力そのもの。
人々による言霊の乱用を恐れて、神々が言霊を隠そうと相談されたという。
「高い山の上に隠そう」「深い海の底に隠そう」
「いや、どこに隠しても欲深い人間はきっと探し当てるに違いない」
そこで出た提案が、人の心の中に隠そうということであった。
言霊の秘密は私たちの心の中に隠してあるという。
いま稽古をしていることは、すでに皆さんの心の中にある事象を映したものなのだ。
「このままではこの世は泥海となってしまう」
皆さんの守護神は皆さんにそのことを知らせ、皆さんは守護神の加勢を得て言霊を世に出そうとしている。
尊いことである。