第154話 「真ん中に立って世界をみる」2016.08.29
世の中はいま事の真偽を問うことに沸き立っている。
今「これは本物だ」と、もろ手を挙げて讚美していたと思ったら、次にはまるで極悪人に対するように口汚く罵っている。
騒ぎをおこした当人たちのことの真偽はともかく、私が何より悲しく怖く思うのは、そんな人たちに対して世間的な人気や評価で簡単に一喜一憂する大衆の心理である。
見えるところばかりに気をとられ、見えない部分に心を寄せようとしないことに怖さを覚える。
○
宗教においても、その団体に対し利益を与えたならば「この人は神様の使いだ」と賞賛するが、もし不利益なことをなせば「あの人は悪霊がついている」ととたんに手のひらを返し必要以上に批難する。
さっき誉めたばかりなのに、もうけなしている。なんと人の心の変わりやすいことか。
見えないものに価値を見出だすのが信仰のはずなのに、権力や財力など見えるものにしか価値を感じなくなり、人の心を審神できなくなったら宗教は終わりだ。
○
武道で目付けとは、相手の表面の姿を見るのではなく、影なる心を観ることと教える。
「見の眼弱く 、観の眼強く」というのが構える時の注意ある。
上面ばかり見てないで中身を見なさいということだ。
そして、物事は常に中庸を良しとする。
前に出過ぎず、後ろに退き過ぎず。
上に揚がり過ぎず、下に降り過ぎず。
右に偏り過ぎず、左に偏り過ぎず。
前後上下左右のいずれにも偏ることなく、すべて真ん中に魂を置くこと。
偏らない心。
これは鎮魂の状態と同じである。
○
鎮魂の状態に入ったとき、過度に喜び過度に落ち込むことがなくなる。
静かな淡々とした状態になる。
しかし、心も体軸も真ん中にあるので、どんな場面にも即対応出来る用意にある。
車で言えばニュートラルの位置にあることだ。前進も後退も自由自在である。
鎮魂とは、物事を冷静にとらえ、臨機応変にして千変万化できる状態を言う。
○
前でもない、後ろでもない。
上でもない、下でもない。
右でもない、左でもない。
私はいつも真ん中にいる。
・・・常にこう唱え、また実践することによって絶対中立の位置を確保できる。
○
真ん中は、言霊でいうところの「ホチ」
「霊」「火」である。
日本は「ひのもと」言われる国。
これは霊の元、火の元と書く。
世界の魂の中心地ということである。
その魂の真ん中に住む人々は、鎮魂の状態にある者であらねばならない。
人を疑ったり、また持ち上げたりせず普通にいることである。
和良久でいう「人を傷つけず人に傷つけられず、人も良くわれも良し」である。
○
言霊は螺旋を描く稽古である。
これは体ばかりではない。
心も軸をもって無限に回り広がることを忘れてはならない。
回ることによって生じる遠心力と求心力の作用を上手に使うこと。
善きものは取り込み、悪しきものは吹き飛ばす。そして、常に周囲と適切な間を保つこと。
言霊は教える。
間をとることの大切さを。
次に調和を。
そして一致。
これは剱を組む稽古を思い出してほしい。
間を計り、相手の打ってくる剱を調和をもって組み、そして打ち返して相手と一致するプロセスを。
○
言霊を学ぶものは、真ん中を学ぶこと。
真ん中を「ウ中」と書いて宇宙と読む。
和良久の道にあるものは、宇宙の真ん中に立つことを求めるものである。
宇宙の中心、すなわち神の座を尊ぶものである。
まんなかは、みなかと転ずる。
みなかは御中である。
宇宙は天の御中主の神である。
○
喜びも悲しみも見据え、銀河の星ぼしを
ゴマ団子のごとくかっ食らう度量をもつ。
そんなアホになれたら稽古は成功かも知れない。