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2006/010/02

第1話 外交政策の基盤となる3つの要素とは?

(アメリカで考えたこと)

私は今、この原稿をアメリカ国内を移動する機中で書いている。手元にある今朝のNew York Timesは、核開発とその阻止を巡って真っ向から対立しあう、ブッシュ米大統領とアハマディネジャド・イラン大統領の国連総会での演説内容をそれぞれ伝え(雑誌『TIME』には既に、アメリカが予定するイラン爆撃の攻撃目標が地図とともに詳しく掲載されている)、Financial Timesは安倍新総裁が対中関係改善のチャンスをつかむだろうという見通しと、米国のポールソン新財務長官が中国の深?を訪れ、当地の共産党幹部との会談で一層の資本主義政策導入で合意したことを報じている。

 

今回のアメリカ訪問では5都市を回り、連邦政府および各州政府関係者、またシンクタンク研究員と外交、内政問題について約50回のミーティングを重ねた。各会議とも大変有意義でありまた刺激的であったが、その内容については別の機会に譲るとして、アメリカに来る度に思うのは ”diversity”こそ、この国の活力の根源だということだ。

 

“diversity”は多様性と訳されているが、要するに、人種も、祖先がアメリカにやってきた背景も、そして生活習慣もまったく違う人々が、それゆえに異なる思想、信条を闘わせて議論し、活動するという営みが、同時に他者に刺激を与える、その循環から生み出される非常にアクティブな社会、風土を表す表現だと思う。

 

そして、アメリカの政治や外交政策のダイナミズムも、こうした社会の多様性と決して無縁ではない。New York Times やWashington Postの紙面を一瞥すれば、そんな政治のダイナミズムがダイレクトに伝わってくる。活発な、ときには過剰な思想、信条のバトルから生み出されるエネルギーと、その過程を通してのコンセンサスの形成こそが、アメリカのダイナミックな政治を支える基盤となっている。今回の訪問でも、そうしたアメリカの政治風土を形成する、ルーツが異なるアメリカ人たちと触れ合う機会が多々あった。

 

8月末にワシントンDCに到着し、ダレス国際空港からロードアイランドアベニュー沿いのHotel Helixに向かう際に乗り込んだタクシーの運転手は、私が何気なく出身を尋ねるとこう応えた。「アフガニスタンだよ。」そして後部座席の私を振り返って大声で言った。「国ではムジャヒディンだった。」ムジャヒディンとは、79年にアフガニスタンに侵攻したソビエト軍に対し、CIAから供与された武器を元に戦ったゲリラ戦士たちの総称である。当時、ソ連軍のミサイルヘリコプターが、ムジャヒディンの持つスティンガーミサイル(携帯し、肩に担いで標的を撃つ)に次々撃墜され、ソ連を悩ませていた。「ソ連軍に兄弟を殺され、親戚も殺された。ならば奴らを相手に戦うほかないだろう。」

 

また、9月中旬、ロサンゼルスの空港から知人宅に向かう際、シャトルバスを運転する初老の男性はイランからの移民だった。「ホメイニ革命で国を離れざるを得なくなった。クリスチャンは住めなくなってしまってね。知っているかい?あのパーレビ国王が追放されたイスラム革命だよ。ホメイニ師が亡命先のロンドンから帰国して、異教徒は国内に住み続けることが難しくなったんだ。」

 

(外交、安全保障という世界への誘い)

私にとって、外交、安全保障ほど知的好奇心を刺激される領域はない。外交という行為が一国の運命に多大な影響を及ぼす故に、そこでは世界屈指の政治家、外交官が織り成す、知謀に彩られたドラマが展開される。例えば、リチャード・ニクソン元大統領の名著『指導者とは』(文芸春秋)を是非読んでほしい。戦後の世界に屹立した巨頭たちが、外交・権謀を駆使しつつ国家の命運を切り開いた、その深層の描写に触れ、読者は大きく魂を揺さぶられることだろう。大変残念なことに、日本には外交上のインサイド・ストーリーを事実の裏付けを伴って報道できるメディアが極めて少ない。国政に携わる機会を通して数多くの外交情報に接してきた私が、このコーナーへの連載を決意した理由は正にそこにある。知られざる事実、ストーリーを読者に紹介し、日本外交への覚醒を促すこと。それが私の熱き想いである。

 

こうした分野への関心が私自身の中で育まれたのは、いつ頃からだったろうか。政治や歴史という、国家の歩みを刻みつつ進む営為に興味を持ち始めたのは中学生時分だったように思う。『小説吉田学校』を通読して戦後政治の骨格と流れに親しみ、高校時代には、日本国憲法や自衛隊といった政治インフラに内在する矛盾を感じ始め、いずれ冷戦という国際政治の枠組みが変わる頃には、これらのあり方も変わらざるをえまい、さもなければ国際場裡での日本の存続には多くの困難を伴うだろう、と考えていた。

 

人の思考の枠組みが形作られていく過程で、読書の影響は非常に大きいと思う。将来の職業として、外交、安全保障に関する分野を志向し始めた大学生時代、専攻した国際政治のゼミでは、週2冊の課題図書読了と、それに基づく4000字のレポート執筆を毎週課せられたが、外交思想の大家ハンス・モーゲンソーや、第二次大戦後アメリカ外交界の良心といわれたジョージ・ケナンなど、この時に読んだ書籍の数々が、私の思考にリアル・ポリティクス(現実主義外交)という基盤を与えてくれた。特に、戦後日本外交を考える上で非常に大きな影響を受けたのは、『1946年憲法・その拘束』(江藤淳・文春文庫)であった。私はいまでも時折、この本の中に登場する白金の東京都庭園美術館を訪れる。朝香宮邸として建てられ、戦後吉田茂が総理と外相を兼務していた頃、外相公邸として使われていたこともあるこの建物の、二階にある白と黒のチェックのタイルが張られているサンルームこそ、日本国憲法草案が初めて、GHQ幹部から日本政府首脳に手交された場所なのだ。

 

(外交政策の基盤となるものとは?)

さて、大学卒業後商社に勤務する傍ら、私はさまざまな外交の場面に遭遇することとなった。その一つが北朝鮮による日本人拉致事件との関わりである。ある雑誌記事を契機に拉致事件への関心を深めた私は、数多くの資料を読み進める過程で北朝鮮による拉致の証拠を示す幾多の記述に触れ、そのあまりにも非道な行為と子供を奪われたご家族の訴えに大きく気持ちを揺さぶられた。それ以降私は拉致被害者救出活動に加わり、様々な機会にご家族と行動を共にすることになるのだが、当時度々お会いした被害者の父親の憔悴しきった表情が、今も鮮明に記憶に残っている。

 

2002年、小泉前総理の訪朝に際し、金正日総書記が日本人拉致を初めて認める。しかしこの訪朝以前は、拉致問題に関心を持つ国民は皆無だったと言ってよいと思う。帰国した拉致被害者との私的な関わりを通して私が学んだのは、世論の強力な支持こそが外交政策の基盤に他ならないということだった。

 

一例を挙げると、小泉前総理が5人の拉致被害者を連れて帰国した際、当初の田中均外務省アジア太平洋局長と、北朝鮮側の窓口だったといわれる所謂「ミスターX」との間には、5人を2週間ほど日本に滞在させ、その後北朝鮮に戻す、という約束があったと言われている。

 

前述の通り、拉致被害者救出活動の一端を担っていた私は、帰国当日5人を羽田空港に出迎え、以後しばらくの間彼らと行動を共にした。北朝鮮から羽田空港に到着後、赤坂プリンスホテルに入った5人は夕方7時から記者会見に臨み、その模様はテレビで全国に生中継された。だが一時滞在後再び北朝鮮に戻るという「約束」が影響したのだろうか、その直前、6時半にホテルの控え室に集まった5人は、顔色も悪く、陰鬱で下を向き、ひとことの言葉も発しない。何かに怯えたような空気が部屋全体を包み、周囲もそれに気圧されている異様な光景がそこにはあった。

 

更に、ホテルを出、新幹線を乗り継ぎ、高速道路を地元へと向かう拉致被害者家族が乗ったバスの中には、約20年ぶりに帰国し帰宅した被害者たちの喜びと、この後本人たちの身がいったいどうなるのかを案じる家族の苛みが入り混じった、いいようのない空気に満ちていた。

 

この問題は、被害者を北朝鮮に戻すことに強行に反対する安部晋三氏(官房副長官:当時)と田中均氏を支持する福田康夫氏(官房長官:同)が鋭く対立し、結局小泉総理の裁断で5人を北朝鮮には戻さないことに決定した、と言われている。この時、決定の大きな理由になったのが世論だった。当時の政府関係者は、「あの時5人を北に返したら、世論が到底持たなかっただろう」と述べたといわれる。

 

(二つ目の要素)

外交政策を遂行する上で基盤となる二つ目の要素は軍事力である。端的に述べれば、外交の至上目的である自国の独立存続という観点から、軍事力による抑止なくして他国からの侵略を防ぎ、国民を守ることは不可能であろう。1939年3月のチェコスロバキア侵攻以来、ナチスドイツはポーランド(39年9月)デンマーク、ノルウェー(40年4月)、ベルギーおよびオランダ(40年5月)、フランス(40年6月)、を征服した。この間わずか1年と3ヶ月。ドイツの軍事力に対し、抑止力となる軍備を保有しなかった国家は、かくも瞬く間に独立と主権を失った。さらに40年頃より、侵攻を受けた国々に住むおよそ600万人のユダヤ人の強制収容所への送還が開始され、遂にはホロコーストという人類史上最大の虐殺を招くのである。

 

(外交、安全保障政策の基盤となる3つの要素)

以上述べた二つの要素に加え、三つ目の要素は国家が掲げる理念に他ならない。フランスでいえば「自由、平等」、アメリカなら「民主主義」や“Human Rights”がそうである。戦後の日本ではさしずめ、「平和」だろうか?こうした各々の国が建国の経緯などから掲げる理念が、他国民に対していかに共感性と説得力に富むものかが、目には見えにくいものの外交、安全保障政策の大きな拠り所となっていることは間違いない。

 

 これら3つの要素が日本の、また世界各国の外交、安全保障政策にどのように反映されているのかを、日本では全く報道されないユニークな事例を数多く紹介しながら、第2稿以降詳しく紹介していきたいと思う。いま日本で、一番ディープな外交情報に触れることができるのは、もしかしたらこのコーナーかもしれない。