2006/11/20
第2話 人間性に潜む「差別」という悪魔
(必ず訪れるべき場所)
これまでワシントンでは数多くの政府機関や博物館を訪れてきたが、「ここだけは訪れるべき」場所をひとつだけ挙げよと言われれば、私は躊躇なくひとつのミュージアムの名を告げるだろう。ナショナル・モールの一角にあるホロコースト・メモリアルミュージアム(追悼博物館)である。ワシントン記念塔から500メートルに位置するこの博物館は、グレーの壁面に「United States Holocaust Memorial Museum」とその名を刻む以外は,一切の虚飾を拒むかのように、ただ静かに佇んでいる。
博物館は通常、歴史や事物の展示、顕彰を目的に建てられるものだが、人間の残虐性と虐殺の惨劇という、人類の負の遺産を後世に伝える目的で建設されたホロコースト・ミュージアムは、博物館としては異例な場所であるとも言えよう。
(ホロコーストとは何か)
言うまでもなく、ホロコーストはナチスドイツによって組織的に行われたユダヤ人600万人と非ユダヤ人(障害者、ジプシー等)100万人の大量虐殺である。アーリア人(非ユダヤ系のドイツ人)の民族的優越性を持論としたヒトラーは、1925年に出版した著書『我が闘争』の中で、「もっとも価値のある人種だけを保存し・・・ドイツ民族を支配民族とすることは・・・ドイツ民族の神聖なる使命である」と記している。ヒトラーはドイツ人種が他人種より優れていると確信し、反対に最も劣等で危険な民族がユダヤ人であるとしていた。政権を獲得した1933年、ナチスは直ちにドイツ国内に強制収容所を設置、さらに35年には「ニュルンベルグ法」(ドイツ国家における市民権をドイツ人種のみに与え、ユダヤ人の公民権、政治的権利を否定した法)を制定、ユダヤ人に対する差別と排斥を拡大していく。こうした差別の行き着く先が、ドイツ国内及び占領地域内の強制収容所におけるユダヤ人の大量虐殺だったのである。
(ミュージアムの中へ)
ホロコースト・ミュージアムの館内に入った私は、まず1階のカウンターへと向かった。そこにはブレザーを着た3名ほどのスタッフがおり、来館者一人一人に整理券を手渡してくれる。10×4センチの厚手の紙でできた整理券には、10〜15分単位で入場時刻が印字されている。印字された時刻になると、来館者はエレベーターに乗り階上へと向かう。館内見学の混雑を避けるため、こうした配慮がされているのである。最上階である4階まで上がった来館者は、その後順路に従って各階を降りながら、展示を見る仕組みになっている。
(パスポート)
整理券に刻印された時刻になったので、私はエレベーターに乗ろうとした。その時、係員がエレベーターホールの左右に置かれたグレーの「パスポート」を一部取るよう、私に勧めた。左側に置かれた「パスポート」は男性の見学者用、右側は女性用。それぞれ、数百枚は積み重ねられているだろうか。一部を手に取り中を開くと、一人の男性の顔写真、氏名、年齢、居住地、そして彼が遭遇した「運命」が記されていた。それは、あるユダヤ人がナチスの手によっていかなる迫害を受け、抵抗し、弾圧され、収容所へと送られて死を迎えたのか、その「死に至る履歴」を綴ったパスポートだったのである。一枚一枚全てが異なる、虐殺されたユダヤ人の記録。山積されたパスポートの数が、ユダヤ民族の3分の1を抹殺したと言われるホロコーストの殺戮の凄まじさを物語っている。訪問者はこのパスポートを手にし、そこに記された人物の足跡を心に留めながら、展示を見ていくのである。
(エレベーター内のプロローグ)
エレベーターに乗り込むと静かにドアが閉まる。やがてゆっくり上昇が始まると、内部に設置されたモニターから映像と音声が流れ始める。スピーカーから聞こえてくる、憔悴し、かすれた男性の声。「トラックに載せられ、長時間揺られて着いた場所は刑務所のようだった。囚人のような衣服を身にまとい、地面に倒れている者、杖をついている者、痩せこけている者。何もかもが異様な場所だった・・・」。それは強制収容所を始めて目にしたユダヤ人の声であり、これから来館者が目にする衝撃的な展示内容のプロローグだった。1分にも満たないであろうが、とても長く感じられる灰色の映像とモノローグ。その終了と同時にエレベーターは止まり、ゆっくりとドアが開いてゆく。その瞬間目に飛び込んできたのは、壁に架けられた一枚の大きな写真だった。暗闇の中、スポットライトに照らされて浮かび上がる巨大なモノクロ写真。10畳ほどの大きさが、その内容とともに来館者を圧倒する。
(衝撃の写真)
「1945年4月、オールドルフ強制収容所で、焼却された収容者の前に立つアメリカ兵」。写真に付けられたキャプションにはそう記されていた。ドイツの同収容所内に立ち尽くす17名のアメリカ兵。みなヘルメットを被り、ある者は両手をポケットに入れ、ある者は体を横に背け、眼前に広がる光景を凝視している。「軍隊で嫌になるほど死体を見てきたが、薪のように積み上げられた死体の山を見るのは初めてだった。・・・死体は幅6メートルに渡り、手がやっと届くほどの高さまで山積みにされていた。まるで薪を積み上げたかのようだった」 一人の兵士の手記には、そうある。
(アイゼンハワーとピューリツァーが見たもの)
さらにその隣には、同じ収容所を訪れ収容者の死体を見る連合軍の三人の将軍、アイゼンハワー、ブラッドリー、パットンの写真がある。腰に両手を当て、厳しい表情で死体の山を直視するアイゼンハワー。後に彼はこの状況を「筆舌に尽くしがた」く、収容所に見られた飢餓、人間の尊厳を踏みにじった状況は、「吐き気を催すほどひどい」ものだったと記している。パットンは餓死した収容者の裸の死体が積み上げられている部屋には決して入ろうとしなかった。アイゼンハワーはその際の様子を「無理に入っていたら、彼は嘔吐していただろう」と述べた。連合軍の最高指揮官であるアイゼンハワーは、収容所を隅々まで見て回った。そうしたナチスの残虐行為が「反ドイツのプロパガンダ」として片付けられてしまわないよう、自らの目で確認しておこうという義務感からだったという。収容所の惨状を確認した彼は、この地区にいるアメリカ軍部隊に収容所を見ることを命じ、さらにアメリカから報道関係者を呼び寄せた。団長として取材に訪れたジョセフ・ピューリツァーは、「初めは半信半疑だった」し「アメリカで報道されているおぞましい記事」の大半が誇張だと考えていたが、収容所を見たあと、これまでのアメリカでの報道はむしろ控えめだったと報告している。
やはりドイツにあるブーヘンヴァルト収容所を訪れたパットン将軍はそこで繰り広げられた惨劇に激怒し、憲兵隊に7キロ先のワイマールまで行き、その市民を連行してこの有様を見せるように命じた。ドイツの国民にその指導者が行った非人道的な行為を見せ、その証人にするように命じたのである。やはり激怒していた憲兵隊はおよそ2000人の市民を連れてきたが、みな顔を背けたりショックの余り気を失ったりした。頭を打ち抜かれても血も出ないほど痩せ衰えた死体の山。番号を刺青され、肋骨が浮き出すほど痩せ細りながら、辛うじて生きている子供たち。惨状を目の当たりにしたジャーナリストはアメリカのラジオでこう語った。「この放送をお聞きの皆さん、いまお話したことは決して誇張ではありません。・・・私にはあのすべてを語られるだけの言葉はありません」。
歴史上、人間の残虐性の極地を示したと言われるホロコースト。それは、なぜ、どのようにして始まったのだろうか。また、それはどうして防ぐことができなかったのだろうか。その詳細を、ミュージアムはつぶさに語り始めるのであった。(続く)