2007/03/19
第4話 大嫌いな日本
「秘密結社」という言葉を知ってからというもの、僕は世の中を懐疑的に見るようになっていました。
勉強の方は以前のようには捗らなくなって行きました。とは言え、自らコミットしたことですから、投げ出すわけにも行かず、勉強は続けていました。
日本では最高峰に当たる超難関の高校を目指していましたが、模擬テストでも常に合格圏に入っていたので、自分の高校受験のことは憂慮することもなかったのですが、ただこの受験システムそのものについては違和感が爆発しそうになっていました。
そうこうしている内に年が明け、受験が近づいてきました。体調の管理と本番で力が発揮できるようにとメンタル的なことに注力していました。ところが、突然、お腹の表面が痛いと気づき、お腹を見ると縦3センチ×横5センチほどの大きな腫れ物が浮き上がっていました。痛くて真っ直ぐには立てなかったので、病院に行って診察を受けると、原因不明でわからないとのことでした。最初は柔らかかったのですが、日増しに硬くなり、筋肉に力が入っているかのようにガチガチになっていきました。とても痛かったのですが、受験前なので我慢するしかありませんでした。真っ直ぐには立てないので、腰をかがめて通学し、痛みを堪えての受験勉強の最終段階へと入って行きました。
そして、受験直前、その腫れ物が破裂しました。緑色のような液がドバーっと出てきて、一瞬焦りましたが、どうすることもできず、液が出切ったのを見て、バンドエイドで傷口を止めていました。今もその傷跡は残っていますが、結局何だったのかわからないままで、まるで、神様から与えられた試練のようでした。(今から思うと、何らかのシグナルだったかのように感じます)
とりあえず真っ直ぐには立つことができるようになり、これなら万全のメンタルで受験に臨めると思っていた矢先です。とてもショックなことが起こりました。
父が脳卒中で倒れたのです。
仕事中に倒れ、病院に運ばれたようでした。
大好きな父の命が心配でした。「今、僕がお医者さんだったら、僕が助けるのに!」と思いつつ、担当のお医者さんに任せるしかありませんでした。
「どうか、父の命をお救いください。まだ親孝行もできていません。まだ逝かせないでください。命をお救いください」と、昼はお天道様に、夜は星空に向かって祈り続けました。もう、勉強どころではありませんでした。
そして、数日後、父の意識は回復しましたが、半身不随のままとなりました。
命は取り留めて、とても良かったのですが、社会復帰が困難であるとお医者さんに言われていたので、僕はお金のかかる私学に通って良いのか、このまま受験して良いのか、とても不安になりました。
僕の兄弟たちも慌しくなっていきました。就職してまもない新聞社に勤める10歳上の兄も会社からお金を借り、農機具メーカーに勤める8歳上の姉も会社勤め以外にアルバイトをしに行き、お金のことで家族の動きがとても変化しました。そんな家族を見ていて、僕だけお金を稼がず、勉強だけしていて良いのか、とても不安になりました。そして、そんな精神状態の中、遂に受験の日がやってきました。
私学に行くお金があるかどうかは別として、試験だけはきちっと受けようとは思ってはいましたが、当時、メンタルの弱かった僕は、倒れた父のこと、お金の工面でバタバタする家族を見ていて、とても情緒不安定でした。
いろんな気持ちがよぎった受験当日、僕は普段の力が全く発揮できませんでした。
そして、結果は不合格。
自分の中では半ば予想していたかのようで、ショックもなく、ただやる気がなくなっていました。今の時代で言うニートのような状態だと思います。
それからは学校も行かず、部屋に籠もったままでした。
その後、父が倒れたことに対して労災が出ないと会社からの通達があり、より一層、家の雰囲気は暗いものとなっていきました。
父が勤めていた会社は古くからある上場している日本の基幹産業のひとつでしたが、その中で父は家族のため、会社のため、日本のためと必死に働いていましたが、その会社の出した結果に僕は愕然としました。
「家族経営の素晴らしい会社だ」と言っていた会社大好きの父の言葉が空しく思い出されました。
その時から、僕は本当に社会が憎くてたまらなくなりました。
人間を道具のように扱い、使い物にならなければ、ポイ、さよなら。人間の良し悪しを偏差値や出身校で決めてしまうシステム。治療を受けるのも、学校に行くのも多額なお金がかかる。そんな社会に僕はとても腹が立ちました。そして、日本が大嫌いになりました。同時に、「お金がなければ勉強できない」と誤った考えをしていた当時の僕は医者の道をあきらめることとなりました。
部屋に籠もっていろんなことを考えました。助け合うべき世の中だと感じていた僕は、僕自身も父自身もがんばってきたはずなのに、何故、こんな結果になってしまったのだろうかと、とても世の中に裏切られた気持ちになりました。
きっと、カンボジアの死んでいった人たちも「わたしが悪いことをしたの?」と思って、無念に死んでいった人たちもたくさん居たかと感じました。そのような人たちが世の中にはたくさん居ると感じました。
そのようなことが自分の身にも起きたので、僕は小学校の時に感じた怒り以上の怒りを感じるようになりました。
父も望んだわけでなく倒れ、無念だっただろう。
父の敵討ちではないですが、僕はこの世の中にやり返したい気持ちでいっぱいになりました。そして、そんな世の中にしてしまったかもしれない「秘密結社」についても、本当に存在するなら許せないと思い、僕はその「秘密結社」について研究するようになりました。
そして、近所の公立高校に行くことになった時には、当時の僕の気持ちは嫌いな日本から出ることと、本当に「秘密結社」がこんな社会にしたのならば、その「秘密結社」を潰してやろうと言う気持ちになったことでした。
そして、その方法を大好きな音楽で表現し、支配者たちが人々を洗脳していること、彼らにとって都合のイイような社会になっていることを伝えようとしました。
高校に入り、バンドを結成した頃の
僕の写真です。
トロージャンと言われた厳つくない
モヒカン頭です。
写真ではわかりにくいですが、
耳の上、側頭部は剃っています。
高校1年生の夏、側頭部の髪を剃り、いわゆるパンク・ロッカーとなったのでした。
1970年代、セックス・ピストルズやザ・クラッシュなどの反体制的なメッセージソングを発信するパンク・バンドたちはひとつの社会現象となりました。1960年代のヒッピーブームも同様、僕は音楽にその活路を見出したのです。
楽譜も読めない僕でしたが、この内から湧き起こる怒りを発信したかったのです。バンドを同級生たちと結成し、何の予備知識もないまま、楽譜の読めない3人で作詞作曲活動を開始しました。
医者を目指していたガリ勉君が、突然、パンク・ロッカーに。親も兄弟も周りの人たちもビックリしていましたが、僕自身は至って冷静で、人生をやり直す気持ちでいっぱいでした。
何だかわかりませんが、自信だけはありました。詩で世間に真実を伝えようとしたのです。
音楽理論も知らない、楽譜も読めない、経験も全く無い、わずか平均年齢15歳のバンドは気持ちや自信はあっても、現実的にはライブハウス世界からはなかなか相手にされず、爪弾きを食らいます。ところが、およそ10ヶ月後にはトリ(出番が最後の動員力のあるバンド)で出演するバンドとなり、当時のインディーズ・ブームの先駆けとなって行きます。
その辺りの軌跡(奇跡)を次回に。
お楽しみに!
いったい僕は何なんだろう…。まだまだいろんなことしていくよ。