2007/07/30  

10話 「仕事の中で遊び、仕事の中で学ぶ」

 様々な体験をした大学生活の後、僕は普通のサラリーマンとなりました。

 

 この日本では、ほとんどの人々がいわゆる「サラリーマン」と呼ばれる人たちであり、その世界を知らなければ、世の中の多くの人々の気持ちは理解できないと考え、3、4年の期限を決めて、サラリーマンの道に入っていったのです。

 

 自分自身が実際にサラリーマンになって、その世界を見ると、今までの様々な認識が変化していきました。

 

 例えば、学生時代、アルバイト先で、酔っ払いのサラリーマンのおじさんたちの姿を見ては、軽蔑の目で見ていた僕でしたが、実際に自分がサラリーマンになることで、その酔っ払う気持ちがわかるようになりました(笑)。

 

 また一方、地獄のような満員電車に揺られながらも、会社のため、家族のためと、文句一つ言わず、黙々と仕事をするサムライのような立派な方も居ました。そのような方を見ると、僕は日本の企業戦士の強さ、誠実さ、凄さを改めて考えさせられたのでした。

その世界の様々な場面を実際に体験することで、世間を見る認識が変化していったのです。

 

 僕が就職したのは、トッパン・ムーア(株)という、大蔵省OBがお札を造るために創った会社である凸版印刷という会社と、ビジネス・フォームというコンピューター帳票を発明したカナダのムーアという会社との合弁企業でしたが、ものづくりの二次産業とソフト面の三次産業の要素を併せ持つ印刷会社なので、あらゆる業界との取引があったお陰で、様々な業界のことが勉強できました。

 今で言うところの経営コンサルタント的な要素もあり、各業界、各社ごとに販促や情報処理システムなどの企画を提案し、その企画ごと仕事を受注していくのです。だから、常に、業界ごとの時代の流れを読み取る必要性があり、情報収集や情報分析など勉強し続ける必要もあり、それはとてもヤリガイのあることとなりました。

 

 そして、遊ぶ時間も勉強する時間も無かった仕事三昧の学生時代からの習慣で、僕は「仕事の中で遊び、仕事の中で学ぶ」習慣があったので、この仕事もまた、一種のゲーム感覚で数字を追いかけ、同時に、出会う人々から何か一つでも学ぼうと、貪欲に営業していました。

 だから、仕事もプライベートも遊びも勉強も、何の区別も無かったので、いつも新鮮で、いつも楽しく仕事をすることができました。お陰様で、新人ではあり得ないような営業成績を次々と収めることができました。

 

 「期限(3〜4年)」と「目的(幅広く世間を知る)」を持って、そのような調子で4年間、突っ走っていた僕は、満足の行く大きな成績を収めることができ、「ここまで結果を出せたんだから、起業できる」と考え、僕は独立することを決意しました。

 

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 「仕事」と「遊び」…混同し過ぎ?(笑)=数少ないサラリーマン時代の1ショット=

 

「仕事」と「プライベート」、「仕事」と「遊び」を区別する人が多いと感じたサラリーマン世界。そういう人たちを見ていると、「仕事」は食べるために「仕方なく」や「嫌々」でやっているようにも見えました。そういう気持ちで仕事をしても、何の喜びも、何の学びもなく、ストレスしか湧いてこないのは当然だと思いました。学生時代に出会った経営者の人たちとの感性とは全く別のものだと感じたのです。僕は「もったいない」と思いました。

 

趣味は趣味であった方が良いですが、人生で費やす時間のほとんどが仕事ですから、その仕事が面白くなかったら、どれだけ不幸なことか!?と思いました。

最近でこそ、「自分が楽しめる」「ヤリガイの持てる」仕事を探そうとする人たちが増えましたが、それらもまた疑問で、どんな仕事でも、自分自身の気持ちの持ちようで、いくらでも楽しいものに変えられると思います。

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 ところが、会社を辞めて退職金を見てびっくり。11万円しかありませんでした。これでは起業できないと思い、大阪の西成というところで日雇いの仕事を始めたのです。

 

 しばらくして、ある日、サラリーマン時代の取引先であった予備校の校長から電話があって、会うことになりました。その先生は僕のことを心配してくださっていたようで、久しぶりに会うと、僕にお腹いっぱいの料理をご馳走してくださいました。そして、いろんな話をしているうちに、その先生の予備校で働く話となりました。

 

 当時は予備校ブーム、実力主義で給与がどんどん上がる時代でしたから、そこでお世話になって、開業資金を集めようと考えたのです。そして、その話がまとまると、その先生は「お祝いだ!」と、僕をあちこちと飲みに連れてくださいました。そして、最後の最後に、その先生の行きつけのバーに辿り着いたのです。

 

 場末の暗い感じのお店でしたが、木村拓哉に似ているそのバーのマスターは、とても知識が豊富な方で、精神世界のこと、天文学のこと、物理学のこと、国際政治のこと等、生まれて初めて気兼ねなく、何でも話のできる方だったのです。

 それまでの僕は、そういった話は、職場や友人などにもほとんどすることがありませんでしたが、そのマスターには僕の話したいことは何でも通じるのでした。

 

 とても嬉しかったのです。それで意気投合し、そのマスターから、その時点で、そのお店で働かないかとオファーされたのです。

 それで結果的に、予備校の先生になるのは半年先の予定だったので、それまでの間、そこで働かせていただくこととなったのです。

 

 ところが、運命とはわからないものでした。半年の約束だったのですが、その後、運命は大きく変わっていくのです。

 

 つづく。

 

 

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