2007/10/01  

11話 「人生とは、わからないもの」

 

日々、日常で起こる小さな出来事であっても、「気づき」が積み重なることによって、人生の節目ともなる出来事に展開する…。

 

気づいた瞬間、意識が変わり、行動が変わり、節目を迎える。

 

ある時はそれまでのものを手放し、ある時は新しいものを受け入れる。

 

意識は新陳代謝し、そして、新たな進化に向かってのドラマが始まる…。

 

 

 

会社を退職した後、ご縁があって、大阪・天王寺よりさらに南に位置する西田辺という町にあるショット・バーで働くようになりましたが、同時にその頃また一つ、人生の節目を迎えます。

 

それまで連れ添っていた妻と離婚することになったのです。

 

妻は高校時代の同級生だったので、僕の音楽時代からそれまでの人生を見て来て、ずっとついてきてくれていましたが、会社を退職したことがきっかけで、目先のわからない不安定な生活になったこともあり、若かった二人の間では徐々に精神的な溝が生じるようになりました。

 

妻は地に足を付け、コツコツと生活を守る現実派の人間、相変わらずの僕は夢ばかりを追いかけてしまう夢追い人…。妻はいかに生活を守るかを考え、僕はいかに夢を実現させるかばかり考えて、妻のことも生活のこともほったらかし。双方の価値観のベクトルが真逆に行くような状態になってきて、夢を追いかければ、追いかけるほど、二人の精神的な距離は遠く離れいくのでした。関心事も話題にもギャップがでてきて、通じ合える話がドンドンできなくなっていくのです。お互いに別の惑星から来た者のように、通じ合わなくなっていくのです。

 

そして、わずか2年ほどの結婚生活でしたが、結局、離婚することになったのです。

 

僕が出て行くカタチで離婚したので、僕には車以外の財産がなくなってしまいました。車の中でのホームレス生活を続けながら、そのショット・バーで働いていたのです。

 

お店はとても暇なお店で、暇な時は、そのマスターと宇宙や哲学的な話をして、いろいろと勉強をさせてはいただいたのですが、あまりにも暇で、お店は大丈夫かと、少々不安でもありました。お給料をもらうのが億劫になってしまうほどで、お給料はほとんどもらうことがありませんでした。僕の方もお金が底をつき、厳しい生活となっていましたので、別の仕事もしないといけなくなり、その時期、友人の勧めで、化粧品の訪問販売をすることになったのです。

 

高校のバンド時代、化粧をしていたこともあった僕は何の抵抗もなく、面白そうだなと思って、フル・コミッションのそのお仕事をショット・バーの仕事の合間にすることになりました。

 

肌の構造や化粧品に含まれる成分などの知識の勉強をし、また、商品のデモンストレーションをするためにフェイシャル・エステの勉強もしました。

 この勉強をきっかけに、市販されている商品の多くは、利益優先で作られているため、人体に悪影響を及ぼす可能性のある原材料を使用していることを知りました。鉱物系の化粧品と天然成分でできた化粧品の違いを知りました。これは、その後、様々な真実を知るきっかけとなった経験でした。

 

 さて、当時は男性が化粧品の販売やデモンストレーションをすることは、一般的には珍しいものでしたが、僕の場合は過去の人脈があり、まずは学生時代のバイト先でご縁のあったお姉さん方や、サラリーマン時代にご縁のあった方々に、「危ない化粧品」と「安全な化粧品」の違いをDMし、デモンストレーションのアポイントメントを取り付けていきました。

 

 アポが取れると、自宅に訪問し、フェイシャル・エステをしていくのです。お顔のマッサージをしたり、パックをしたり、終わった後は癒されるのです。当時は癒しブームはまだ来ていませんでしたが、あまりにも癒されるのか?化粧品を売るための一度限りのデモンストレーションでありながらリピートの要望が次々と来てしまうのです。

 

 その評判は口コミで広がり、当時は毎日のように昼間から晩まではずっとエステばかりすることになりました。夜は朝までショット・バーで働き、午前中だけ車の中で寝て、また仕事に行くという生活の繰り返しでした。

 

 そして、約5ヶ月が経った頃、そのショット・バーのマスターが僕に言いました。「お店をやめようと思うので、引き継がないか?」と…。

 1ヵ月後には予備校の先生になる予定だった僕は、一旦はお断りしたものの、このお店とのご縁を結んでくださったその予備校の校長に相談してみました。

 

 すると、そのお店を気に入っていたその校長先生は「うちの予備校に来るのは、いつでも良いから、このお店をやってみたらいいじゃないか。川島君の夢だった起業ができるんだよ。チャレンジしてみるチャンスだよ」と、僕にお店を引き継ぐことを勧められました。

 

 そして、僕は決断しました。「何も失うものはない。流れに身を任せて、やってみようか」と…。

 

 それから1ヵ月後の平成9年2月1日、僕のお店として、そのショット・バーをオープンさせました。

 

 地元でもなく、友人たちの多い難波や梅田でもなく、お客様が来るのか、少々不安な気持ちもありましたが、オープン時間の直前に心を落ち着かせ、瞑想し、たくさんのお客様で賑やかになる様子をイメージして、「僕の念波よ、広がれ〜。そして、共鳴した人々をお店に集めたまえ〜。そして、ご縁のあった方々が幸せになりますように」と念じたのです。

 

 すると、そのオープンの日、宣伝もしていないのに、3回転もするほど、見知らぬお客様が次々来ました。

 

 本当に驚きでした。

 人生とは、何が起こるか、わからないものです…。

 

                               つづく

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