第5話 鉄道技師を天職とした父の生涯(3)
前回は過酷な初年兵教育と軍隊での制裁についてのお話でした。今回は父の人生の
大きな決断のときを向えます。
手記「軍隊生活の1年」−ハルビン〜遼陽〜釜山へ
3ヶ月間の初年兵教育も終わり、翌昭和20年4月1日付けで父は一等兵に昇格しました。同時に所属していた鉄道第2連隊は、ハルビンからさらに約600キロ近くも南下した遼陽(リャオヤン)にある鉄道第12大隊に転属となりました。遼陽は日露戦争での遼陽会戦や満州事変にても激戦のあった地です。
この頃にもなると、戦況は一段と厳しくなり、急激に軍人が増えたため、職業軍人の幹部だけでは足りなくなり、旧制中学の卒業生から選抜して幹部教育をして、中堅幹部を養成する動きが始まっていました。父の部隊からも旧制中学の卒業生たちはこれに応募しました。それは当時では当然の成り行きであり、応募しない者は非国民扱いでありました。
父も旧制中学ではありませんが、学校も出ており、何より軍隊で何回か行われた試験も一番であったため、上官から盛んに幹部候補生になるよう勧められました。勧められるたびに父は、
『自分は長男であり、鉄道員が天職である。国に帰ったら国鉄に再就職します!!』と断固として断り続けました。
『真実私は軍隊がすきでなかったし、軍人として生活しようと思っていなかった。軍国主義の華やかな時代に、よくぞ上官の前で「国に帰ったら」と言えたものである。さすがに物静かな上官も語気荒く、「生きて帰ることを考えるヤツがあるか!!」と怒鳴られた。
とにかく再考するよう何度も要請されたし、こんなことが半月も続いた。この間相談したい親、兄弟も外地ではどうすることも出来ず、また親しい戦友もなく、自分のこれから先の人生を真剣に考え込んだ期間であった』
父にとって、まさにこれからの人生の進路を決める大きな決断のときでありました。
『自分では、国に帰り国鉄に再就職して生涯鉄道員で最後まで勤める決意に変わりはない。この決意はどんなことがあろうと他人に詮索されまい。自分もどんなことがあっても悔いまいと決めた』
実際の手記には書かれていませんが、ある上官などは幹部候補生に断固としてなろうとしない父を、「貴様、命令に逆らうのか!!」と、死ぬほど殴ったそうです。
しかし、そういった再三の幹部候補生の勧めにも「生涯、鉄道員でいく」、と通した父のあまりに強い決意に、最後は上官も何も言わなくなった、とあります。
人生万事「塞翁が馬」。もし、幹部候補生となってハルビンにそのまま居たとしたら、北緯38度以北でしたから、戦後シベリアに連れて行かれて強制労働をさせられていたでしょうし、私の祖父は事実2年間シベリアでソ連の捕虜となりました。
また実際に父と同じ小学校の同級で、主席を通して旧制中学にいった友だちは、幹部候補生となりましたが、戦死。このとき父は、『自分の人生は自分で切り開いていくものだと、つくづく感じた』と記述しています。
手記「軍隊生活の1年」−遼陽から釜山(プサン)へ
昭和20年の4月に、父の所属した隊はハルビンから遼陽の鉄道第12大隊に移ったばかりでしたが、4月の中旬、父が歩哨勤務中に、この大隊は朝鮮の釜山に転戦となっていました。この後5月末までの1ヵ月半の期間は、残留隊員として遼陽に留まり、この期間が父の軍隊生活の中で一番楽しかった時代でした。
『始めは20名程いた残留隊員も次第に減り、最後は私を含め5名となった。ここでは無意味な制裁や、ましてや朝の点呼もなく、仕事はといえば、上官官舎の風呂掃除をしたり、郵便物を届けたり、炊事当番をしたりといった内容で、軍隊にもこんな生活があったのかと、入隊してからの生活からみるとまさに天国のようで、鼻歌気分の日々であった』
しかし、そんな生活も束の間、6月になると直ぐに、父たち最後の残留隊員は、朝鮮半島の釜山にある本隊と合流しました。
ここでの父たちの中隊の任務は、機関車の防空壕造りでありましたが、父はこの作業には参加せず、隊の事務仕事を任されていました。
『釜山に来てしばらくすると、ハルビンなどの大陸の奥では経験しなかった空襲警報が鳴り、夜空高くB29が飛ぶ日が幾日か続いたと思っていたら、日中でも低空飛行での機銃掃射や爆弾投下があるようになった』
そして昭和20年7月末、いよいよ戦局険しくなり、早朝大隊長から全員集合の号令がかかりました。
『「ソ連と戦争状態になった。わが隊はこの朝、満州国境に転進し、ソ連との戦闘に参加する。隊は直ちに準備の出来次第出発する」
内務班に帰ると、班長から「身辺整理」を命ぜられた。軍隊で言う「身辺整理」は、いつ何処でどんな事があっても良い様に、家族に言い残すことがあれば書き残し、不要のものがあれば整理することである。
この時各人に、封筒と便箋が渡された。時間も無いことで、とっさにどんな事を書いて良いか迷ったが、「父も、母も、姉さんも、繁も勲も馨(父の弟たち)も元気でいて下さい。私も国の為に頑張ります」こんなありきたりの文章を書いた。
望郷の念が急に沸きあがり、家族の者に一言でもいい、話したい、見たいという感情しきりであった。これが遺書になるとは誰も言はないが、戦友たちも皆同じ事をおもってか、沈黙の時間が続いた。 −中略− 手紙が書きあがった者は隊の命令で髪の毛を封筒に入れさせられ、最後に氏名を書いて提出した』
手紙を書く際、軍隊に1年近くいたために、簡単な漢字が浮かばず、隣の戦友に聞いてもわからず、父たち兵士は皆苦労して手紙を書きました。
さて、次回はいよいよソ連が参戦し、父たち鉄道部隊も空爆を受けることになります。そして昭和20年8月15日のその日を向かえていきます。