2008/02/04    

7話 鉄道技師を天職とした父の生涯(5)

 

前回は、ソ連軍の空爆から敗戦そして帰国までの話でしたが、今回は、生涯鉄道技師として生きた父を語る最終章となります。

敗戦後国鉄に復帰

故郷高崎に帰国後翌日には、入隊前の勤務先であった国鉄信越線の横川保線区に挨拶に行き、4、5日の身辺整理の後、国鉄に復職しました。

ここから現役引退までの47年間、戦地で決意した天職である、鉄道技師としての父の人生が再び始まります。

父の鉄道人生の中で、どうしても忘れられない事件がありました。それは昭和25年6月9日早朝に起きた、信越線熊ノ平駅での土砂崩壊事故でした。

前日8日に起きた土砂崩壊の復旧作業中に再び土砂崩壊が発生し、一瞬のうちに、作業員や熊ノ平駅構内そして鉄道官舎を飲み込み、50名の方が亡くなられました。埋もれた官舎の中から乳飲み子をしっかりと抱えた若い母親が見つかり、この母子像が殉難碑として建てられました。

 

この大事故のとき、父もまさに土砂崩壊の現場にいましたが、間一髪で逃れることができました。1時間前まで一緒だったひとが、国道に無傷のまま寝ている姿を見て、死んでいるとは父にはとても信じられなかったそうです。

診療所の知っている医師が聴診器を当てて、「これは死んでいる、これも死んでいる」と看護婦に言っている現場に立ち会っていた父は、その医師に向かって、「良く診ろ!!」と怒鳴ったといいます。そのときの極度の興奮状態は、空爆にさらされて眠気も空腹も痛みも感じないとき以来でありました。

「せっかく戦争を生き残って帰ってきた仲間が、ここで死んでしまうのは、ほんとうに口惜しい!!」と、父はこの熊ノ平土砂崩壊に関する手記に書き残していました。

軍隊時代に、「要領」の上手い、下手で大変な損得の違いが 出ることを頭では充分にわかっていたはずの父でしたが、実際には、「要領」を上手く使える人ではけっしてなく、戦後国鉄に復職してもその性格はまったく変わりませんでした。

様々な鉄道工事においても、また職場の人間関係においても、いつも正義感が強く、論理的・合理的な思考をして、表裏の工作などできない父は、上司に正論を説きました。その癖いつも部下をかばう父でしたので、いわゆる世間的な出世は遅かったようです。それでも最後は高崎鉄道管理局の工事区長で55歳の定年を向かえました。

生涯現役。当時の国鉄というお役所的なところでは、出世とあまり関係のない父でしたが、国鉄退職後も、東鉄工業そして秩父鉄道といった鉄道関連の会社に引き抜かれ、相変わらず、貨物基地やコンテナ基地から貨車を在来の線路に乗り入れさせる工事や駅の高架橋などの大きな工事に関わっていました。

67歳で脳梗塞で倒れて現役を引退せざる終えなくなりましたが、最後まで仕事への情熱を忘れないひとであったので、もし元気に生きていたら82歳。きっと今も元気よく、嬉しそうにそして真剣に、様々な鉄道工事の監督や指導、それに施工や計画といった仕事をしていたことでしょう。

家庭での父そして最後の日

そんな仕事一筋の父は、休日だからといって家で寝ているという姿を見たことはなく、姉の二人の娘である孫を、何回もディズニーランドに連れていったり、母と車で旅行などをしたりして楽しんでいました。とにかくゴロゴロするといった「休む」ということを知らない、そしてそうした「休む」ことのできない人でした。

また、40歳を過ぎた頃より始めた社交ダンスは、特に大好きで、忙しい仕事の毎日であったはずですが、平日や土曜の夜なども時間を割いては毎週のように欠かさず練習に行き、父のまわりには、毎回ダンスの教えを請うひとたちが集まっていたと聞きます。

踊ることが好きだったのでしょう。夏には自分の町内会の盆踊りだけではもの足らず、周辺の各町内会の盆踊りにもよく躍りに行っていました。

そして父は、とにかく「ものつくり」が大好きでした。仕事で、大きな鉄橋や操車場、地下通路など、様々な鉄道に関するものを造っていたにも関わらず、家に居るときでも「ものつくり」に励んでいました。

夕食が終わるとすぐに、工事で余った銅線の針金を集めては、誰にも教わらずに自らの手法で細かくそれを編み上げて、亀や埴輪やバラの花それに能面などなど実に様々な作品を作っていました。

思えば、僕は父から「将来こうしろ」とか、「人生はこうだ」とか、そんなことを生前一言も言われませんでした。ひょっとしたら、父は僕を教育しようとかいう意識はあまりなかったのかも知れません。それ程父は、自分の人生に真剣で、いつも全力疾走でまっすぐ前しか見ていなかったようにも思えます。

しかし、日常生活の中での上記の父の姿が、自然と僕に染み込んで、今の僕という人間作りになっていったのだと思います。

「黙して語らず」、ひたすら自分の人生を真剣に一生懸命に生きている父の姿こそが、僕にとって大きな教育だったと思います。そしてそのことこそ、父が望んだ僕への教育だったのかもしれません。

皮肉なことに、その何事にも一生懸命に取り組むことが、仇となりました。

夏の炎天下、自宅の草むしりに励み、脱水になり、もともとあった心房細動の持病が災いして、脳血栓が発症したのです。これが闘病生活の始まりとなりました。

父の最後の2年近くは、この脳梗塞の再発で入退院の繰り返しとなり、構語障害や半身麻痺のリハビリで、温泉施設のある、当時僕が入局していた群馬大学の関連病院での闘病生活となっていました。しかし父のベッドの横に簡易ベッドを置いて毎日寝泊りしながら、付きっ切りの看病する母がいて、父はとてもしあわせな人生の最後であったと思います。

リハビリ中の温泉施設のある病院で発熱した父は、精査と治療のために隣町の日赤病院に転院となりました。今までずっと看病してくれた母を一旦休ませる意味だったのでしょうか、父は母を自宅に帰らせました。その母が帰った翌日、最後はおそらく、血栓が心臓を支配する冠動脈に飛んだのでしょう、急性心筋梗塞となり、あっけない最後となりました。

自分の最後の姿を母に見せたくなかったのでしょうか、ずっと付き添っていた母がいなくなった日にそのときを迎えたのです。父の隣に入院していた患者さんの話では、「うっ!」と胸を押えて、それきりだったようでした。

平成6年11月4日、享年69歳でした。

父が他界し、早13回忌も過ぎましたが、ときおり屈託なく笑う父の顔が浮かび、とてもいとおしく感じられます。こうして今回父の思い出を綴るうちに、父が19歳から20歳の1年間に軍隊生活を送った大陸の地での足跡を、いつの日にか、僕は辿りたくなりました。

 激動の昭和を、生涯鉄道技師として生き抜いた父の話はここまでです。次回は、この父を支え続けてきた母の話をしたいと思います。

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