2008/03/24    

9話  天命の芽生え

 

第3話から第8話まで、父母の人生、特にその人間性について語ってきましたが、この両親の人生を振り返ることを通して、今の自分という人間の基盤に、両親の性格や人生を生きる姿勢が、もののみごとに引き継がれていることに気付かされました。

父の、ひとにお世辞を言うことのできないバカ正直さ、目標達成へのひたむきな努力、仕事への勤勉さ。そして母の、ひとを分け隔てることなく受け入れる包容力、ひとを和ませる暖かさ。そんな両親の個性であり、生き様がそのまま自分にあることに、今はこころから感謝しています。

自分が若いときは、「この親とは自分は違う」と言わんばかりに、まるで自分を、両親とはまったく関係のない他人のような立場に置いて、批判的・批評的な目でもって、両親の性格や生き方の欠点ばかりをあら探しをしては、否定をしていました。

そんな父母の個性や生き様を認めて、それをまるごと受け入れること、そして同時に自分の天命を確認する作業は、まさに両親と自己との統合となりました。そして、この統合ができて始めて、新たなさらなる飛躍した自己を築き上げて行く道が始まる、そんな気持ちがしています。

この父母との統合を終えて、ようやく自分史を始めることができます。

1958年(昭和33年)12月2日。群馬県安中市磯部の信越線磯部駅の鉄道官舎で、お産婆さんに取り上げられて僕は生まれました。ここは、1783年に「天明3年の浅間山の大噴火」が起こったときに湧き出したという「磯辺温泉」のある小さな田舎町です。出産予定日どおりの誕生で、9歳年上の姉や7歳上の兄が嬉しくてたまらないといった表情で、生まれたばかりの僕を抱き上げている写真が残っています。

父の転勤のため、1年ほどで埼玉県の熊谷市の鉄道官舎に移り、幼稚園に入園する前の4歳頃までそこに住んでいました。僕が生まれた昭和30年代当時の一般的な家庭の食事の風景は、家族の皆が畳に座って、高さ数十センチの丈の低い木製の丸い食卓を囲む、といったものでした。僕が「ハイハイ」を始めた頃、毎回食事になると家族が囲むこの丸い食卓によじ登っては、皆が食べているご飯やおかずを素手を伸ばして食べようとして暴れまわるので、家族の皆に「豆台風」とあだ名を付けられていたようです。食いしん坊の片鱗がこの頃からすでに現れ始めていたのですね。

人生初めての記憶は3歳のときだったと思います。それは、当時住んでいた鉄道官舎と垣根で隣接していた中学校の校庭の横の畑から見た、真っ赤な大きな夕陽でした。毎日片時も離すことなく乗っていた大好きな三輪車を降りて、「この夕陽は一生忘れない」と思って、その真っ赤になって沈んでいく大きな太陽の美しさに見惚れ、一緒に遊んでいた子の存在も忘れて、ずっと畑に佇んでいました。それから後の人生においても、ときおり出会う自然の美しさに思わず立ち止まり、その美しい自然をまるごと受け入れてひとつになろうとするごとく、しばしその場で佇んでいることが今もあります。

 幼稚園に入る直前の4歳のときに、父の転勤にともなって父の実家である群馬県の高崎市に引越しとなり、以後高校を卒後して大学に入るまで、高崎市での生活となりました。ここは、東京から約100キロの北西に位置し、商業の盛んな街で、当時の人口は約20万人でした。群馬県は、昔は「上州」とも呼ばれ、名物には、夏の雷や冬の赤城山から吹き降ろす冷たく乾いた「空っ風」。そして、本当の意味では、妻がとても働き者であるという「かかあ天下」が有名な地です。

幼稚園に入った頃から、誰に言わされたわけでもなく、「僕は将来医者になる」と周りのひとたちに言い出していたようです。両親の近い親戚に医師がいるわけでもなく、また生来健康であったため、かかりつけの近所の開業医に憧れるような機会もなかったのですが、何故か将来の仕事をその頃から医師と決めていました。そして人生の途上、その実現に挫折したときもありましたが、医師以外の自分はまったく考えられず、実際に医師となった今も、そのこと自体に疑問や迷いはまったくありません。

「天命」という言葉があります。天が与えた使命。人生をかけてやり遂げていく仕事。ひとは何をしあわせと感じるか、それには様々な価値観があると思いますが、自分の天命を知り、そのために人生を全うすることができたら、これほどしあわせな人生はないのではないか、と僕は思います。ひとは、「人生の途上で様々な苦難にぶつかり、その嘆きの中に自分の天命を見出す」とも言われます。そういう天命の発見もある一方、自分の中の天命の芽が自然に発芽するように、自分の天命を知るということもあるようです。僕の場合はまさに後者で、それはきっと、かなり明確にある意志、いわばひとつの使命感をもって、生まれる前に今世の自分の人生を計画してきたからだ、とも思えるのです。

ひとは永遠の魂をもって、あの世とこの世の無限の転生輪廻を繰り返し生き抜く中で、様々な経験をしてその魂を向上させていく、と僕は信じています。だからひと皆それぞれが、この世に生まれ出る前のあの世において、今回どんな仕事をしてこの世に貢献するのか、今の自分にとってどんな魂の学びが必要で、そのためにどんな経験がこの世で必要か、といった計画をして、この世に生まれ出てきていると思います。天命はまさにこの計画と深く関係していると思うのです。どのような計画をどこまで詳細に立てるかは、各々の魂によるのでしょう。そして、その天命に人生の途上、いつ気付くのか、はたまた気付かずに今世終えてしまうのか、それもまた各々の魂によるのかもしれません。

小学校から中学校時代、「医者になり、ひとを助ける」という、今ならばその言葉のもつ意味の重さを感じ、とても軽々しく言えないことを、当時の僕は何の疑問も抱かずに、またそれが天命だなどといった意識もなく、あまりにも当然の将来の自分の像として描いて過ごしていました。まったく怖いもの知らずの、無知ゆえの態度だったのでしょう。

しかし医師になるからといって、特別に勉強をするといったこともなく、小学校時代は授業が終わればすぐに自宅に戻ってランドセルを玄関に放り投げ、校庭や公園で友達と毎日遊んでいました。時折、真っ暗になるまで遊びほうけ、こっそりと家の裏木戸を開けて帰り、母に叱られたものでした。成績はほどほどでしたが、担任の先生からのコメントは、小学校から高校まで、どの先生になってもいつも、「温厚で公平な性格」という評価でした。

地元の高校に行き、いよいよ大学受験という時期になっても、今までしっかりと勉強してこなかった付けが回ったのでしょう、まったく勉強方法もわからず、真剣に受験勉強に取り組むこともできずにいました。授業も聴かず、ただひたすら夏目漱石、芥川龍之介、川端康成や阿部公房の小説にのめりこみ、ほぼ全巻を読破しました。特に川端康成の、日本の美しい四季の描写と主人公の織り成す繊細で情緒的な世界に傾倒して、まさに「雪国」に憧れ、医学部も結局北国の大学を選ぶことになりました。

高校時代までは神社や仏閣に行くことは好きでしたが、大いなる存在といった「神」ということに対して無関心で、聖書研究会に入っている同級生を、英語の授業のときになるとただ意味もなく、「hypocrite(偽善者)!」と呼んでいたくらいでした。

父は国鉄の鉄道技師。収入から言って、進学できる大学は国立の医学部以外あり得ません。しかし高校時代は上記のような生活の有様ですから、当然合格などできるはずもなく、浪人生活となりました。

浪人しても、今までの勉強不足ややり方のまずさから思うように成績も伸びず、結局まったく主旨のない選択で大学を決め、それも医学部でない教育学部に入学して、自分の幼稚園からの夢を諦めようとしていました。

さて、次回は自分の夢に再び目覚め、初心貫徹を決意し医学部に入りなおしたお話となります。

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