2008.08.19  

14話  仏陀の教え 「正しさ」そして「原因と結果」について その2

 

前話から、私が学んだ仏陀の真理のお話をしています。真理の探究とは、言い換えれば、正しさの探求とその実践であるというお話でした。そして今回は「因果の理法」である「原因と結果の法則」についてのお話をさらに進めていきます。

真理のひとつである「因果の理法」は、宇宙を貫く法則です。すべてはこの法則に貫かれています。一粒のぶどうの種が地におちてぶどうの木となって実をつけるように、この法則は自然界だけでなく、わたしたちの人生においても貫かれています。

ぶどうの実を得たいのに、雑草の種を蒔くひとがいたら、誰もがこのひとを笑うでしょう。どうしてでしょうか?それは、誰もが、得たい「結果」に対しての「原因」が間違っているとわかっているからです。

しかし、私たちの人生にも同じ法則であるこの「因果の理法」が働いていることに、私たちは意外に気づいていません。「幸福の実」には「幸福の種」が必要です。「不幸の種」には「不幸の実」がなります。誰もが幸福の実を得たいと願っているのならば、この因果の理法に気付かなくてはなりません。真理はいつも実にシンプルです。

では、人生における「因果の理法」すなわち「原因と結果の法則」の「原因」とは、何でしょうか?それは、日々の「おもい」とそれに基づく「行い」です。そして「結果」は、現在そして未来の自分の状況となります。もし今が充実した幸せな人生と感じて生きているとしたら、今のしあわせな状況をもたらした「おもい」と「行い」という原因が、過去にあったからです。反対の状況もまたしかりです。

この因果の法則に照らして、今日までの私の人生を振り返って見てみます。

幼稚園の頃から医師になるという「おもい」はありました。しかしそれに基づいた「行い」、すなわちしっかりとした勉強を高校3年生の受験の時までしていませんでした。この「おもい」と「行い」の原因が不十分では、当然医学部に合格するという結果を得ることはできません。そこで、「医師になって人を助けたい」という初心に帰り「おもい」を新たにし、集中して勉強するという「行い」の「結果」、今度は医師の道が開けました。

また最近では、「自分のクリニックという場で、より根治的な新しい治療を実現したい」という「おもい」を新潟にいたときに持ち、そのために毎週末のように東京に来て勉強や研修さらにはクリニックの場所探しなどのまる3年間の「行い」という原因の結果、今こうして渋谷の自分のクリニックで診療を行っています。

因果の理法は、すべての人に働いています。今、自分の状況を見たときに、もし好ましくない結果であったならば、その原因であった「おもい」と「行い」は過去どうであったか?自責の念強く、悲観的、消極的となり、また他人への不平、不満、非難のおもいや行いで日々を過ごしていなかったか?振り返って反省する機会が得られます。このとき、因果の理法は「気付きの法則」になります。

また、今の「おもい」と「行い」という原因の質と量をともに高め続けていくならば、すなわち人生に希望を持ち、積極的となって、他人への感謝と尊敬のおもいと行いで日々を過ごしたならば、この原因に見合った結果が、将来において必ず得られます。だから因果の理法は、「希望の法則」でもあります。

この「おもい」と「行い」の質と量を継続して高めていくことこそ、第13話で書いた仏陀の「八正道」そのものです。自分の日々の思いと行いを観察すること、その傾向性に気付くことこそが、幸せへの始まりです。

私たちは、誰もが幸せになりたいとおもい生きています。しかし、ほんとうにしあわせになるには、自分だけではなれません。まわりの人がしあわせになって始めて自分もしあわせになります。その実現のためには、お互いがお互いの個性を活かして、「ひとに役立つ」という大きな天命を果たすことです。

人にはそれぞれの個性に見合った天命があります。その天命を動詞で表現するならば、「助ける」、「癒す」、「伝える」、「工夫する」、「繋げる」などなど様々あります。私は、そのいずれもが、ひとつの大きな天命である「ひとに役立つ」ということに繋がると考えます。

ひとの一生は1日24時間、およそ80年間です。この限られた今世の時間の中で、自分の天命に気付き、それをいかに結果として実現していくかは、一日の中の自分の「おもい」と「行い」という原因を、どれだけ「ひとに役立つ」という大天命の実現のために満たしていくか、そのことにあると考えます。

もし、私が一日24時間のうち3分間だけ患者さんを元気にしたいと考え、3分間だけ治療を行い、残りの23時間57分を「おいしいものが食べたい」、「寝たい」ということだけを考えて行動をとっていたとしたら、医師としての天命を果たすことができるでしょうか?これはすべての立場や職業で言えることです。

本当にしあわせになる道は、「因果の理法」という「原因と結果の法則」を知ることに始まり、その方法論としてこの法則に基づいた「八正道」の実践にあるのです。仏陀はそれをわたしたちに教えてくれていると思います。私は法華経からこのことを学びました。

仏陀の説いた「正しさ」は、永遠に探求していくことですが、私はそれを「互いを生かす道」、「互いをしあわせにする道」と考えます。別の表現をすれば、それは互いが「ひとに役立つ」という大天命を目指すことでもあります。このことは、まさにイエスが説いた「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という愛のおもいと繋がります。

『正しさの追求⇔愛の実践』

ここにおいて仏陀とイエスの教えがひとつになります。すなわち正しさを追究して行こうとする時、そこには愛のおもいが不可欠であり、また愛を実践していくときは、そこには正しさの追究が必須であるということです。そこで次回からは新約聖書から私が学んだお話をしていきます。

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