2008.09.01  

第15話  イエス・キリスト 愛について その1

 

−愛する−

前回は、法華経から私が学んだ仏陀の教えについてのお話でしたが、今回は聖書、特に「新約聖書」から学んだお話です。引用した聖書の一文は、日本聖書協会1954年改訳版からです。

聖書は、私にとってまさに、「愛」の教えであり、私が聖書から学んだことは、「徹底した愛の実践」でした。死後2000年にわたり、人類にこの「愛」の尊さ、偉大さ、力強さを教え続けてきているイエス・キリストの存在は、ほんとうに信じられないほど大きな、大きなものがあります。

では、聖書の中で、イエスは愛について、どんなことをおっしゃっているのでしょうか?いくつか抜粋してみます。

・ 自分を愛するように隣人を愛しなさい。 (ローマ人への手紙 第13章9節)

・ 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。 (ガラテヤ人への手紙第5章13節,14節)

・ 互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 (ヨハネによる福音書第13章34節)

・ 『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分と同じように愛しなさい』   (マタイによる福音書 2章 38〜39節)

などがあげられますが、どの教えも最初のこの一文に帰するのです。

『自分を愛するように隣人を愛しなさい』

この言葉に初めて聖書で出会ったとき、それはまさに衝撃そのものでした。そして今でも衝撃であり続けています。それは、この一文がまさに、私の人生の永遠の課題であり続けているからです。

仏陀もイエスも、自他の魂が向上し、お互いが幸せになる道を説きました。仏陀はそれを、前回書いた「因果の法則」などの永遠不変の法といった“智恵”から説き、イエスはまさに存在そのものが愛である“愛の実践”から説いています。

『自分を愛するように隣人を愛しなさい』

イエス・キリストは、この一文をもって、その後2000年にわたり、人類に究極の愛のあり方を示し続けています。この一文の持つ意味を真に理解し、日常生活において行動に変えていくこと、すなわち生涯にわたり愛を探求し実践していくこと、それこそが私にとって人生最大のテーマです。

イエスはその生涯を通して、自分の命をかけて、「愛すること」を私たちに説き続けました。何故それほどまでに愛を説いたのでしょう?

それは、
愛することが、私たちのほんとうのしあわせだから。
愛することが、私たちの本性だから。
愛することが、私たちの親なる神とひとつになることだから。
愛することが、私たちの魂を向上させるから。

以上の理由の他にもあると思いますが、いかにしてこの「愛すること」の質を高め、その量をより大きくしていくか、そのことこそが私たち魂の永遠の課題であり、存在理由だと思うのです。言い換えれば、魂の成長は「愛すること」を通して初めて得られるのだと思うのです。

親が、躓きながらもようやくよちよち歩きが出来始めた子の成長を楽しみにしているように、宇宙の大霊としての神様も、子である私たちが愛に悩みながらも愛を通して魂を成長させていく姿を、目を細めて、悠久の時間の中で、見守り続けてくれているのではないでしょうか?

魂の成長とは、「愛すること」の質と量を成長させていくこと。

イエスや仏陀が、救世主としてこの世に出る使命は、どれほど多くの人類の魂の質と量を成長させられるかがテーマだと思うのです。そういった意味において、救世主であっても、私たちと同様その魂の本質的な課題は、この「愛すること」の質と量をいかに成長させていくかということになります。もちろん、救世主と私たちとでは、愛する対象の数と質において、途方もない程の差があります。

私たちは誰しもしあわせになりたいと思い、日々生きています。では、「しあわせ」とは、どんなことを言うのでしょうか?いろいろな定義はあるかもしれませんが、

「お互いが愛し合っている」と感じられる、そんなとき、ひとは何よりもしあわせを感じられるのではないでしょうか?

では反対に、私たちが「不幸せ」と感じるのは、どんなことを言うのでしょうか?それは、誰かを憎んでいる、怒っている、恨んでいる、それらのおもいで悲しんでいる。これは言い換えれば、そのひとを「愛していない」自分がいます。そして同時にそのひとから「愛されていない」と感じています。そのとき、私たちは不幸せと感じます。つまり「お互いが愛し合っていない」とき、そこにしあわせは存在しないのです。

だから、「そこに愛があるか、ないか」それこそが、「しあわせであるか、ないか」、の違いではないでしょうか?

私たちの魂は、「お互い愛し合いたい」という、根源的な欲求をもっています。それは言い換えると、「ひとつになりたい」という欲求でもあります。

何故、私たちは「愛し合いたい」、「ひとつになりたい」と根源的な欲求があるのでしょうか?それは、私たちの魂は、別々の個性あるものとして存在してはいますが、その根源は、宇宙の大霊である神様から生まれ、繋がっているからだと思うのです。

さて、次回もこのイエスの言葉、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」の続きの話となります。

 

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