第18章―11 隠蔽(いんぺい)されたガン治療法の数々 その10
慢性病、生活習慣病の治療、特にガンを治すために最も必要なことは、ガン細胞を退治することよりも、体全体の健康度を上げることだ、と前回書きました。この健康度を左右するのは、食事や運動などのライフスタイルもあるかもしれませんが、それより、本人がどれだけ生きているか、が決め手になると私は考えています。
生きている、というのはなかなかうまい説明が見つかりませんが、例えば、出口光メキキの会代表の言葉をお借りすれば、志があり、その志を実現するために、全身全霊で打ち込んでいるのが、最も生きている、のだと私は思います。その逆で、生きているのに、生きていない人もたくさんいそうです。
私たち一人一人は志を持って生まれてきて、志すものは一人一人違い、たとえ似たように見えたとしても、一人一人全く独特だ、と私には思えます。一人一人志すものは、西洋的な表現では情熱(Passion)として現れ、それは例えば、ナポレオン・ヒル(Napoleon Hill)が成功の鍵を探り出すために、当時の世の中の大成功者に片っ端からインタビューして書いた「Think And Grow Rich(日本語版は”思考は現実化する”)」の初っ端(しょっぱな)の第1章に描かれています。
そしてそれは、スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)が大学生向けの講演で、「(見つかるまで)探し続けろ(Keep Looking)」と言ったものであり、出口代表によれば、それは日本人の多くにとって、嘆きの中に隠されています。
成し遂げた時の素晴らしさを想像するよりも、実現するという大仕事はどう見ても、とてつもなく大変でしんどそうだから、そんなの無理だ、と考えてしまう典型的な、苦労性の日本人的な発想では、嘆きになってしまうのかもしれません。
私のそれは、感動することに隠されているようです。感動なんて誰でもするし、別に普通(Ordinary)のことじゃないか、と思われるかもしれませんが、感動することは私にとって、普通のことではありません(Extraordinary)。
私の個人的な歴史は、ある意味、感動の歴史です。その歴史がはっきりしてくるのは、19歳のころからです。強烈で鮮明で私に決定的なインパクトを与えた感動の体験は順番に、
大岡昇平の小説「野火」
(最後のクライマックスを読んだ時、自分の周りがグラグラと大きく揺れ動いたように感じた)
ニューヨークのメトロポリタン美術館に飾られていたゴッホの肖像画
(見た途端、それから目が離せなくなり、立ったまま、かなり長い時間じっと見ていた)
スペイン・バルセロナのガウディの大建築「サグラダ・ファミリア」
(一目見た瞬間から、呆然と立ち尽くして、相当長い間見続けた)
ロサンゼルスで、当時世界三大ピアニストと呼ばれていた男性(名前が分かりません)が「展覧会の絵」(ムソルグスキー作曲)を弾いたソロ・コンサート
(とにかく、最初から最後まで、ウワーと感嘆し続けていた)
ロサンゼルスで、テナーのルチアーノ・パヴァロッティが、ソプラノの女性と行ったコンサート
(最初から最後まで、パヴァロッティが歌うところではほぼずっと、涙を流し続けていた)
建築家のクリストファー・アレクサンダー(Christopher Alexander)が書いた「Nature Of Order」全4巻の第1巻
(3か所で、声をあげて泣いた。泣けて泣けて仕方がなかった)
物理学者のブライアン・グリーン(Brian R Greene)が書いた「Elegant Universe」の中で、アインシュタインの特殊相対性理論の意義と意味を説明した記述
(大声をあげて思いっきり泣いた。かなり長い時間、涙が止まらなかった)
これら以外にも、強烈で鮮明な感動の体験は、きりがないくらいあります。ですから私は、感動に導いてくれる芸術、アートが何よりも好きです。スポーツ、ドラマ、ストーリーも同じ理由で大好きです。メキキの会が主催する個の花道場のようなセミナーやワークショップによく参加するのは、参加者が開けて(オープンになって)その人の本質が現れるたびに、大きな感動があるからです。
感動した時、感動に浸っている最中は、私にはその感動しかありません。例えばベートーベンの交響曲(特に5、7、9番)を聞いて感動している最中、目の前の光景を目で見てはいるのでしょうが、それに意識が全く向いていないので、実質的には見ていないのと同じです。これがもし車を運転している時だったら、自動操縦のようになっていて、何かが起きたらおそらく体は反射的に対応すると私は思うのですが、そこに意識が行っていないので、実際に対応するかは分かりません(運転中に聞いている音楽に感動して、危険なことが起きたことは今のところありませんが、危険がないとは言い切れません)。
ともかくこの最中は、ベートーベンの音楽は聞いてはいますが、他のことにはいっさい意識が向いていません。このとき、私はどこか、別な次元にでもいるようです。そこには、何もありません。物質的なものは、何もありません。自分の体でさえ、全く感じません。でもその体験は、とても強烈で鮮明です。この感動の体験は、私には大きな喜びです。これに優(まさ)る喜びはおそらくありません。
私は今、ロサンゼルスのスターバックスでこの原稿を書いています。私の周りには、私のようにパソコンを操作している人、何かの原稿のようなものを読んでいる人、話している人、コーヒーを買っている人など10人くらいいます。スターバックスの中のこれらの像はとても鮮明です。目の前にあるテーブルは頑丈そうで、たたいてもビクともせず、これ以上確かな、強固なものはないように見えます。
ところが、ふと気がつくと、パソコンを操作していた人はいなくなっている。コーヒーを買っているのも別な人です。そのうち私もこのスターバックスから出て、別な場所に移動すると、私に見えるのは全く違う像になる。これ以上確かなものはないように見えるこのテーブルも、私が移動すると、私の前からは消えて無くなる。
ここで私が見ている光景(像)はその瞬間は鮮明で、確かだけれども、次の瞬間には変わっている。私たちが視覚などの五感で捉える現実は、常に変化している。私たちは同じ肉体をずっと持ち続けているように感じているかもしれませんが、この肉体だって常に、細胞分裂で新しい細胞が作られ、古い細胞は捨てられて、変化し続けている。そのうち死んでしまったら、分解されて、もくずとなる。
そして、先ほどスターバックスで最初に記述した人たちの像は、思い出すたびに、刻一刻と薄く、ぼんやりしてきます。そのうち、思い出すことすらなくなってしまうでしょう。私たちが五感で捉える現実は、自分の肉体も含めて、その捉えた瞬間だけ存在し、次の瞬間には別な内容の現実になっている。次々と過ぎ去る現実は記憶の中に放り込まれ、時間とともにぼやけていく。こう考えると、五感で捉えることができる物質的な現実は、移ろいやすい、その瞬間だけしか存在しない現実です。
これは物質的なものだけに限りません。私たちの考えも、常に変化していて、ずっと同じ考えを維持するように感じているかもしれませんが、その瞬間の考えは、次の瞬間には、全く同じように思えても、微妙に違う内容になっていませんか。出口代表がよく指摘される、コロコロ変わる心というのは、この刻一刻と変化する考えのことを指しているのではないか、と私は思います。
それに対し、感動の最中に私が体験する”異次元”は、いつでも全く同じように思えます。強さはその都度、違うかもしれません。でも、その都度、全く同じ体験です。この”異次元”も、視覚などが捉える移ろいやすい現実と同じように、現れては消えます。感動が永遠に続くわけではありません。
でも、私が浸っているこの”異次元”はものすごく強くて、鮮明です。これほど確かなものはない、というのが私の実感です。しかも、純粋で混じり気がありません。強烈な光を浴びせかけられて、その強い光に包まれているために、光以外は何も見えなくなっているような。私は、これこそ本当の本物であり、これが真実ではないのか、と思っています。
そしてこの”異次元”には、切れ目や境(さかい)が全くありません。自然の壮大な景色に心を打たれた時(これも感動です)に体験している見事さ、美しさには切れ目がありませんよね。景色の中の山や湖、あるいは木々の一つ一つには形があり、他のものとの境があって、色が違ったりなど一つ一つ区別ができるのですが、その景色を見ることによって私に湧(わ)き上がってくる美しさ、見事さの実感には区切り、境界といったものがありません。
この”異次元”の体験こそが、私にとっては”悟り”です。悟りというのは、差が取れる、つまり差がない、区切りや境界がない、ということだそうです。
この”悟り”の最中は、例えばベートーベンの音楽を聴いているだけです。他には何も存在しません。私自身ですらいません。少なくとも、自分の体を全く感じません。しかし、この”異次元”を、この”悟り”を体験しているのは誰なのか。これを体験している主体であるはずの私は、一体何なのか。
この”異次元”は強烈で強くて、鮮明で、純粋です。この純粋なものだけで満たされています。これこそが真実で、他に真実はないのだとしたら、本当の私は、この純粋なものと同じではないか。形はなくて、ある純粋なものだけで満たされている。ですから、完全で完璧です。これが哲学でいうホール(Whole)ではないか、と私は考えています。
この純粋なものだけで満たされている、ホールである”悟り”の境地は完全で完璧であり、本当の私はこのホールではないのか。このホールに病気などは存在しようがない、と私は思います。これを体験している私の実感から言えば、存在しないなんてもんじゃない。病気なんて、そんなものありえない。この”悟り”こそが真実だとしたら、真実には病気など存在しない。
健康の英語、Healthの語源は、このホール(Whole)だそうです。ヒーリング(Healing)というのは、ホールになること。英語の語源学によれば、健康である、ということは、強烈で鮮明で純粋なものだけで満たされ、他には何にも存在しない完全で完璧なホールである、ということです。本当の本物の私がホールだとしたら、私はこれ以外ありえません(本当でないニセモノの私は私ではありません)から、私は完全で完璧な健康でしかない。病気などありえません。
また、このホールこそが真実であり、私たちは本当はホールなのだとしたら、ホールには切れ目や境が全くありませんから、私たちには本当は、切れ目や境がない。つまり、分断されていない。気脈で世界を繋(つな)げる、というのがメキキの会の、ネットワークで世界を繋げる、というのがFacebookの目標のようですが、繋げると言うと、分断されている私たちを何かで結びつけるようです。でも、私たちの実体がホールだとしたら、最初から最後まで分断されていない。ですから、分断されていることを前提とした繋げるという表現は、真実にはどうも適さない。気脈、ネットワークで繋ぐどころか、本当は、最初から分断しようもない。
愛の日本の語源は、会う、合わさっている、だそうです。ですから、愛する、というのは、一体化する、ということで、真実の本当の私たち一人一人は分断されていない、つまり最初から最後まで一体化していますから、私たちは誰もが誰をも愛している。真実には例外はなく、全員がすべての人を愛している。
恋愛真っ盛りの相手が目の前にいて、愛を実感している最中を憶い出してください。感動の体験と同じ、悟り、差のない境地に達しているはずです。キリストがこの世は愛だ、と言ったのは、まさにそれしか存在しないからで、隣人を兄弟のように愛せよ、というのは、愛せよと命じたというより、真実は、誰をも兄弟のように愛しているんだ、ということを訴えたように思えます。
それなのに、私たちは愛から、感動から、悟り(差はない)から生きてはいない。もちろん、私もそう生きていません。私は、恥をかかないように、人にどう見られているか、人に負けないように、自分より優秀に見える人に劣等感を、自分の方が優秀に見える場合は優越感を、自分が気にくわないことをする人にこのバカが、といったところから生きている。感動や愛の最中の悟りこそが真実だと実感しているのに、このざまです。
では、「生きている」とはどういうことなのか。体の健康度を上げる、ガンなどの予防や治療の決め手となる「生きている」とはどういうことでしょうか。
(続く)